2009年06月29日

古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる

「韓」は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称に由来する朝鮮民族の別名。日本と清との間で取り交わした下関条約の後の1897年に当時の大朝鮮国(朝鮮王朝)が国号を大韓帝国に改めたことで正式の国名となった。1910年の大日本帝国による韓国併合後、この地域の呼称は朝鮮に戻された。のち、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府は、亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した。
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韓国において、「朝鮮」という呼称は「朝鮮民主主義人民共和国」を認め「大韓民国」を否定するものと理解される[要出典]ため、また、歴史的に韓国人からあまり思わしくないと考えられている李氏朝鮮を想起させることから、忌避される傾向がある。「朝鮮民族」「朝鮮語」などの言葉が日常で使われることはほとんどなく、「韓民族」「韓国語」などと呼ばれる。背景には、北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していることなどがある。また、朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮戦争を「韓国戦争」などと呼称するのが一般的である。北朝鮮は「北韓」、朝鮮人参も「高麗人参」という(「高麗人参」は土産物用、輸出用に限られ、韓国内では「人参」という。野菜のニンジンは「タングン」(唐根)という)。ただし、ホテル名や学校名、朝鮮日報のような新聞社名など、ごく少数の固有名詞で、日本の一部であった時代からの歴史のあるものや伝統的な語感を生かそうとしている名称には「朝鮮」が使用されることもある。

2009年06月12日

肝細胞癌(かんさいぼうがん)

肝細胞癌(かんさいぼうがん、英Hepatocellular carcinoma; HCC)は、肝臓に発生する腫瘍の1つで、肝細胞に由来する悪性腫瘍である。

原発性肝癌の90%以上を占める。80%?90%が肝硬変あるいはその前段階である慢性肝炎に合併して発生する。男女比は約3:1で男性が多い。発症平均は60代前半。

日本や東アジアでは欧米よりも肝細胞癌の発生率が高い。これは元々地域的にC型肝炎ウイルスの感染率が高いことが原因と考えられている。

日本や西欧ではC型肝炎が原因として多いが、その他のアジアやアフリカではB型肝炎が多い。

肝細胞癌の多くはウイルス性肝炎から発生する。C型肝炎が70?80%で最多であり、次いでB型肝炎が10%?20%と多い。その他、BC重複感染と非B非Cが数%ずつある。

まれな原因としてヘモクロマトーシスやアフラトキシン暴露などが挙げられる。肝細胞癌になる前に素地として慢性肝炎や肝硬変が存在する事が多い。特にC型肝炎が原因の場合にはほとんどが肝硬変を経て癌化する経過をたどる。(発癌率は年7?8%であり、6年から7年で50%が発癌する)一方、B型肝炎では肝硬変からの発癌以外に、慢性肝炎からいきなり肝細胞癌になることがある。これはB型肝炎ウイルスはDNAウイルスでありHBV遺伝子が感染肝細胞の癌遺伝子を活性化しているためである。また、アルコール性肝硬変を原因とする肝細胞癌は日本では少ない。

最近では、非アルコール性脂肪性肝炎(NASH: non alcohlic steato-hepatitis)を原因とする発癌が増加している。NASHは、飲酒習慣のない脂肪肝患者に発生する非ウイルス性肝炎で、急速に肝硬変に進展したり、肝癌が発生するなど、重症化しやすく、近年注目されている。

カビ毒アフラトキシンに汚染された工業原料米(事故米)が食用として流通し、問題となっている。
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HBVに関してはその発癌機構にHBVウイルス(DNAウイルス)の肝細胞への取り込みが関与していることはよく研究されているが、HCVの場合は依然として不明である。ひとつの可能性として肝硬変による慢性の細胞障害が考えられている。しかし劇症肝炎では肝細胞が殆ど死滅するのに癌化することはあまりなく、慢性の刺激がどこまで重要かは意見が分かれるところである。おそらくHBVでも肝硬変を経てから発癌する場合はHCVでの発癌に近い機序で行われていると推察される。HBVウイルスは原則として、成人発症の場合は急性肝炎となり、ウイルスはいずれ排除される。新生児期や乳児期にHBVの感染が起こると、いわゆるHBVキャリアとなる。HBVキャリアの場合はウイルスの排除がなされないため、慢性肝炎を経て、肝硬変に至るとされている。ただし、全例が慢性肝炎に移行するわけではなく、成人になってウイルスが消失することも多い。キャリアの場合は細胞分裂が盛んな時期にHBVが取り込まれているので発癌率が高くなるのは当然である。事実HBVキャリアと成人感染のHCV感染者で肝細胞癌の発生を比較したところ、HBVキャリアの方が10?20年発癌が早かった。しかしこれは条件異なりすぎて、HBV感染者の方が発癌しやすいとはいえない。近年、HBVもウイルスのタイプが変化し、成人発症でも慢性化するタイプが増えてきたので、こういった症例を用いて検討をしない限り結論はでないと考えられている。

現在コンセンサスを得られていることは、いかなる慢性肝障害も肝細胞癌のリスクとなる、ということだけであり、リスクの程度の差の検討は十分ではない。

2009年06月07日

海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)は

海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)は日本海軍に属した陸上戦闘の為に編成される部隊の事である。単に陸戦隊と呼ぶこともある。

日本でも当初はイギリス海軍にならい、海軍の兵科として海兵隊が置かれた。これは現在のアメリカ海兵隊のような上陸作戦部隊ではなく、海上戦闘で敵艦船への強行接舷後に強行移乗・制圧を行う部隊として設置された。つまり現在の海上自衛隊の特別警備隊、ないし、護衛艦付き立入検査隊に似た運用を目的とされた。しかし、「強行移乗による制圧は時代遅れである」との声で1876年(明治9年)に廃止され、海兵軍楽隊のみが軍楽科として存続した。そのため海軍での軍楽隊員の制服は海兵のものとなっている。なお、海兵隊は佐賀の乱や台湾出兵では実戦参加している。

1886年(明治19年)11月5日に海軍陸戦隊概則が定められた。海軍陸戦隊は常設でなく、艦艇の乗組員から必要に応じ陸戦隊を臨時に編成した。鎮守府などの陸上部隊の人員で構成する特別陸戦隊も編成されることがあった。
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西南戦争などでは機動力を生かし鎮圧に功績を挙げた。日露戦争では、仁川上陸作戦などの上陸作戦で陸軍を支援したほか、陸揚げした艦載砲と乗組員で臨時に編成された海軍陸戦重砲隊が、旅順攻囲戦に参加した。第一次世界大戦時にも青島攻略戦に重砲隊を参加させたほか、艦船陸戦隊と6個特別陸戦隊によるドイツ領南洋諸島の占領や、シンガポールで発生したイギリス軍インド人兵士の反乱鎮圧などに従事した。二・二六事件の際は横須賀鎮守府および艦艇の乗員で編成された陸戦隊を動員し反乱軍に対抗することが計画されたが、実施の前に反乱は鎮圧された。

また、国際的には、在外公館の警備や自国民保護には陸軍部隊ではなく海兵隊を使用することが常であり、日本も特に清国、中華民国における在外公館や居留民の保護に海軍陸戦隊が活躍した。義和団の乱では、戦闘激化直前に砲艦愛宕から派遣された25名の陸戦隊が、篭城戦での貴重な兵力となった。上海事変では上海海軍特別陸戦隊が編成され大規模な戦闘へ将兵が投入された。上海事変を受けて1932年には海軍特別陸戦隊令が制定され、上海海軍特別陸戦隊は正式な常設部隊となった。

太平洋戦争では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊や防衛隊などの名称で陸戦隊が次々と編成された。また、落下傘部隊(1942年1月にセレベス島メナドで太平洋戦争最初の落下傘降下作戦を実施した。指揮官は堀内豊秋中佐。堀内中佐はその功を讃えられ、特別に昭和天皇に拝謁した。)や戦車部隊も保有した。終戦前には本土決戦に向けて艦艇部隊などの多くが陸戦隊に改編され、総兵力は10万人に達していた。

このように、日本海軍の陸戦隊は拡充を続けたものの、米海兵隊の様に陸・海軍から独立した軍種となることはなかった。また、海軍内でも陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、海軍士官にとって根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであった。

2009年04月24日

北海道からサハリン(樺太)

1995年5月から、北海道・稚内港とサハリン・コルサコフ港との間に、「平成版稚泊航路」が運航されるようになった。当初はロシア船を利用して定期フェリーが就航したが、1997年、1998年は、旅行会社のチャーター船による運航となった。1999年から日本船籍のアインス宗谷号が就航している(冬季を除き週2便の運航)。

北海道本土から択捉島
ソ連軍侵攻後は、北海道本土から択捉島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本土から島に直接渡る場合は「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、クリリスク(紗那)に入港する。「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると、国際航路を通行する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げ、また、クリリスクに到着後は、ロシアの税関当局による入域審査を受ける。

なお、このチャーター船の利用は、日ロ両政府の合意により、旧島民、その子孫、ならびに返還団体から推薦された者等に限定されている。これは日本側がロシア領であることを認めたくないため、ロシア側の正式な手続きを取らないことを提案し、ロシア側がそれを受け入れているからである。実際には日本政府に申し出れば、研修を受けた後、返還団体の推薦を得ることが出来る。つまり希望すれば誰でも「ビザなし交流」に参加できる。

サハリン(樺太)から択捉島
コルサコフ(大泊)港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルハトディノフ」号が週2便出発している。この船は、月曜日にコルサコフを出帆、火曜日に択捉島、水曜日に色丹島ならびに国後島に寄港、木曜日にコルサコフ帰着、金曜日にコルサコフ発、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港、月曜日にコルサコフに戻るというスケジュールで、3月?12月まで運航される。

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北海道本土から国後島
ソ連軍侵攻後は、北海道本土から国後島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本土から島に直接渡る場合は、「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、古釜布(ユジノクリリスク)に入港する。「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると、国際航路を通行する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げ、また、古釜布に到着後は、ロシアの税関当局による入域審査を受ける。なお、このチャーター船の利用には、前述の制限があり、自由に利用することができないため、南サハリン経由で渡ることとなる。

航空機
サハリン(樺太)から択捉島
現在の択捉島にアクセスする定期公共交通は、南サハリン(南樺太)を拠点に運航されている。ユジノサハリンスク(豊原)ホムトヴォ空港(大沢飛行場)からはサハリン航空が週4便(月、水、木、金、いずれも午前発)、択捉島留別村のブレヴェスニク空港(旧天寧空港)まで就航している。しかし、有視界飛行であるため、霧がかかりやすい夏季には欠航となる確率が相当に高い。また、この空港は、戦前の日本の海軍飛行場を改装したロシア軍基地と共用になっており、中心都市のクリリスクから砂利道を自動車で片道2時間半かかる不便な場所にある。


2009年04月06日

アラブ音楽

アラブ音楽(アラブおんがく)とは、アラビア語を話す人々の音楽である。地域的には西南アジア、北アフリカを中心とした広がりを持ち、国としては、シリア、イラク、レバノン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、イエメンなどになる。周辺のイラン、トルコの音楽などとも関わりを持つ。

単旋律的で、メロディーは中国音楽のような5音音階的なものではなく、7音音階的である。中立音程などと言われる音程の使用が特徴的。メロディーには太鼓などによるリズム伴奏が付く事も特徴の一つ。

近年では、アルジェリアのオラン地方に発するライがポピュラー音楽としての発展をとげ、中東のみならず欧州をはじめ世界中で親しまれている。

歴史 [編集]

ジャーヒリーヤ期 [編集]
基本的に声楽。歌を意味するはアラビア語は「ギナーア」。口頭伝承の形で伝えられていった。
狭義の「ギナーア」 - 芸術的なもの
ナスブ - 世俗的なうた。
シイル - 詩。
フダー(フダーア) - 隊商(キャラバン)のらくだ追いのうた。
ナウフ - いわゆる哭歌(なきうた)。葬式の時のうた。
ムガンニー(男性)、ムガンニーヤ(女性)は「歌をうたう人」の意。
シャーイルは詩人(巫)だが、詩(シイル)にはメロディがつくのが普通だった。広義には音楽家といえる。
カイナ(複数形キヤーナ)と呼ばれる「芸者」・「歌姫」がいた。

ウマイヤ朝期 [編集]
ダマスカスの宮廷などで活躍した音楽家。
イブン・スライジュ
マアバド(? - 743年)
ガリーズ
ワリード2世(カリフ)
マーリク・アッターイー
イブン・アーイシャ
ユーヌス・アルカーテブ
イブン・アルカルビー(? - 763年) - キターブ・アルナガム(旋律の書)、キターブ・アルキヤーン(歌姫の書)の著者。
イブン・ミスジャハ - アラブ古典音楽の整備に功。
ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったと言われる(現存せず)

アッバース朝期 [編集]
バグダードの宮廷で活躍した音楽家。
ハカム・アルワーディー
イブン・ジャーミー
イブラーヒーム・アルマウシリー
イスハーク・アルマウシリー - イブラーヒーム・アルマウシリーの子。優れた音楽家として名声を博した。古典アラブ音楽を守る保守派として、ペルシャ音楽を取り入れようとしたイブラーヒーム・イブン・アルマハディーと対立。
ザルザル
イブラーヒーム・イブン・アルマハディー - カリフ、アミーンのおじ。ペルシャ音楽の取り入れをはかった。古典アラブ音楽を守る保守派としてのイスハーク・アルマウシリーと対立。
ジルヤーブ(ズィルヤーブ) - イスハーク・アルマウシリーの弟子。
当時の哲学者は博く様々な事柄を考察の対象としたが、音楽理論に関する著作を残した哲学者も多い。
音楽理論に関する著述を行った哲学者
キンディー(801年 - 873年?)
サラハスィー(? - 899年)
サービト・イブン・クッラ(? - 901年)
アブー・バクル・アッラージー(? - 925年)
イブン・ホルダーズベー - ペルシャ出身。論文が現存。
ファーラービー(870年 - 950年)
アブー・ルファラジュ・アルイスファハーニー
イブン・スィーナー(980年 - 1037年)
サフィー・アッディーン

セルジューク朝期 [編集]

モンゴルの征服 [編集]

オスマン帝国期 [編集]
ハサン・エフェンディ Hatip Zakiri Hasan Efendi(1545年 - 1623年)
ガージー・ギライ Gazi Giray(16世紀末) - クリミア・ハン国のハン。作品にマーフル・ペスレヴ(Mahur pesrev)など。
ソラックザーデ Solakzade(17世紀前半) - 作品にニーシャーブール・ペスレヴ(Nişâbur pesrev)など。
ハーフィズ・ポスト Hafiz Post(? - 1693/1694年)
ブフーリーザーデ・ムスタファー・ウトリー Buhurizâde Mustafa Itrî(1640年 - 1711/1712年) - ハーフィズ・ポストの弟子。
アフメト・チェレビー Ahmed Çelebi(17世紀後半) - 作品にセギャーフ・セマーイー(Segah semai)など。
デルヴィーシュ・ムスタファ Derviş Mustafa(17世紀後半) - 作品にニハーヴェンド・ペスレヴ(Nihavend pesrev)など。
カンテミルオウル Kantemiroğlu(1673年 - 1723年) - モルダヴィア(ルーマニア)公ディミトリイ・カンテミル Dimitrie Cantemir のトルコ名。公子としてイスタンブール滞在中に数々の曲を作曲。独自の楽譜を考案、自作曲を書き残した。のちにロシアに亡命。ラテン語で優れたオスマン帝国史書を残したことでも有名。
タンブーリー・ムスタファ・チャヴシュ Tanburî Mustafa Cavuş(18世紀前半)
シェリフ・チェレビー Şerif Çelebi(18世紀前半) - 作品にラースト・ペスレヴ(Rast pesrev)など。
セリム3世 Sultan III. Selim(1761年 - 1808年) - オスマン帝国の第29代スルタン。オスマン古典音楽を数多く作曲し「セリム3世楽派」の祖とみなされた。
ハマーミーザーデ・イスマイル・デデ Hamamizade İsmail Dede(1777/1778年 - 1845/1846年) - オスマン古典音楽最高の作曲家で、「デデ・エフェンディ Dede Efendi」として知られる。オスマン帝国第31代マフムト2世の宮廷に仕えた。
ハンパルスム・リモンジュヤン Hamparsum Limonicuyan(1768年 - 1839年) - アルメニア人。ハンパルスム譜を考案。
デッラールザーデ・イスマイル・エフェンディ Dellalzade Ismail Efendi(1797年 - 1869年) - イスマイル・デデの最も著名な弟子で、師につぐ大作曲家。美声で知られ、宮廷声楽家になった。
タンブーリー・オスマン・ベイ Tanburî Büyük Osman Bey(1816年 - 1885年)
ゼカーイ・デデ Zekai Dede(1824年 - 1897年)
ハジュ・アリフ・ベイ Hacı Arif Bey(1831年 - 1884年)
シェウキ・ベイ Şevki Bey(1860年 - 1890年)
レミ・アトル Lemi Atlı(1869年 - 1945年)
タンブーリー・ジェミル・ベイ Tanburi Cemil Bey(1871年 - 1925年(1916年とも))

近現代 [編集]
アブドゥルワッハーブ
ファイルーズ
ウンム・クルスーム
ラシード・タハ(Rachid Taha、アルジェリアのライ)
ハーレド(Khaled、アルジェリアのライ)
シェブ・マーミー(Cheb Mami、アルジェリアのライ)

ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

2009年03月22日

ファインモールド

ファインモールドは、愛知県豊橋市に本社兼工場がある日本の模型メーカーで、インジェクションキットとしては主に旧日本軍の航空機や軍用車両やドイツ軍の航空機などで、比較的マイナーなものを多く製造、販売している。

キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

概要 [編集]
従業員7名ながら、マニアにとっては一目置かれる会社となっている。特に旧軍の兵器については、実際に使用した元兵士にインタビューを行うなどのこだわりを見る。その考証性の高さは、製品に同封されている内容の濃い解説書からもうかがい知れる。(因みにほとんどのメーカーでは「組み立て説明書」に半?2ページ程度の解説文を載せる位で、それすらないものもある。)

その他、ホワイトメタルを用いたメタルキット(ガレージキット参照)、第二次世界大戦から現在までの軍用機や戦闘艦艇、軍用車両に用いるエッチングパーツやメタル、レジンキャストを用いた「アフターマーケットパーツ」と呼ばれるディテールアップ用の製品についても積極的に製造販売を行っている。またレーザー彫刻機や超微細領域のプラスチック成形技術を駆使した、他のメーカーが手を付けない領域のパーツ提供がモデラーの話題になっている。

近年は社長が顔見知りの漫画家鳥山明にデザインを依頼した1/12? ワールドファイターコレクション、スター・ウォーズシリーズのXウイングやミレニアム・ファルコン、宮崎駿監督作品の紅の豚に出てくるサボイアS.21[1]、押井守監督作品のスカイ・クロラの散香Mk-Bといったキャラクター関連キットの製造も行っている。特にスター・ウォーズシリーズはスケールモデルメーカーならではの考証性の高さから国内外で高い評価を受けているアイテムもあるがミレニアム・ファルコンのようにメーカーの独自解釈からか、プロポーションがオリジナルのプロップと異なってしまったものも見受けられる。また1/48のXウイングは同社初のスナップフィットモデルで組み立て易さに定評があるものの、全体的にモールドが甘く大きなヒケも表面に見受けられるなど評価の分かれるキットになっている。 本来同シリーズはルーカスフィルムとの契約で日本国内の販売に限られているが、個人輸入などで海外に出回ったキットが高い評価を受けて、ドイツの「モデル・デス・ヤーレス」(年間傑作模型賞)を受賞してしまったという逸話もある。

以前はハセガワ経由で商品が流通していたが、とある事情により現在は独立した流通経路を確立している。 タミヤのキットにファインモールドのキットが入ってる商品もある(兵士の人形など)。

社のキャラクターとして、社内で飼っている犬「五式犬」がある。

社長の鈴木邦宏は、実家は木工業だったが、伝説的模型サークル「無限軌道の会」の設立に関わるなどの戦車模型好きが高じて家業をクビになり、金型職人となった経歴を持つ。それだけにキットの再現度や金型技術へのこだわりは強く、2004年12月地元豊橋市から「とよはしの匠」に選ばれるなど、「現代の匠」として認定・表彰を受けている。

2009年03月07日

タコマ (防護巡洋艦)

タコマ (USS Tacoma, PG-32/C-18/CL-20) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。デンバー級防護巡洋艦の1隻。艦名はワシントン州タコマに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
タコマは1900年9月27日にカリフォルニア州メア・アイランドのユニオン鉄工所で起工した。1903年6月2日にジュリア・M・ハリスによって命名、進水し、1904年1月30日に艦長R・F・ニコルソン海軍中佐の指揮下就役した。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

整調後艦名の由来となったワシントン州タコマを訪問し、4月から5月にかけてハワイへの巡航を行う。タコマは6月2日にサンフランシスコへ帰還し、その1か月後ホーン岬へ出航した。航海中タコマはチリのバルパライソを出航後行方不明となった商船コネモー (SS Conemaugh) の捜索に参加した。ホーン岬を回って大西洋岸を巡航した後、タコマは11月5日にニューヨーク湾に入り、同地で1905年の元旦に北大西洋艦隊と合流した。

クレブラ島沖の演習を1月25日に完了すると、タコマはイスパニョーラ島へ向けて出航、多くの混乱が生じた時期にアメリカ合衆国の権益を保護するための特別任務に従事した。その後タコマは3月27日から4月25日までフロリダ沖で砲撃訓練を行う。5月19日にニューヨークに帰還すると、ヨーロッパへの航海の準備を始めた。

6月18日にタコマはフランスへ向けて出航し、6月30日にシェルブールに到着した。艦はそのまま停泊し、水兵の部隊はパリへ行き、ジョン・ポール・ジョーンズの遺体をアメリカ合衆国に再埋葬するため運ぶ記念式典に参加した。7月8日にタコマはメリーランド州アナポリスに運ばれる遺体を護衛するためシェルブールを出航した。7月24日にアメリカ海軍兵学校で式典が行われた後、タコマはニューヨーク州トンプキンズヴィルへ向かった。8月5日、タコマはニューヨークで小村壽太郎らを乗せ、オイスター・ベイにあるセオドア・ルーズベルト大統領の避暑用の別荘、サガモア・ヒルに彼らを運んだ。そこで小村はロシアの全権大使セルゲイ・ヴィッテと初めて対面した。小村とヴィッテはその後ポーツマスで開催された日露戦争の和平交渉を行った。タコマは8日にフィラデルフィアに帰還し、ペンシルバニア州およびマサチューセッツ州の海軍民兵の訓練を行い、その後カリブ海での作戦活動のため北大西洋艦隊に再合流した。

1906年の前半5か月間、タコマは地中海へ展開しタンジェ、アルジェ、ヴィレフランシュ、ナポリ、ジェノヴァを訪問した。グラン・カナリア島への巡航後、タコマは地中海に戻りアレクサンドリア、ポートサイドを訪問し6月に帰国の途に就いた。

2009年02月18日

写真乾板

写真乾板(しゃしんかんぱん、Photographic plate )とは写真術で写真湿板に続いて用いられた感光材料の一種で、光に感光する銀塩の乳剤をガラス板に塗布したものである。日本語では単に乾板と呼ばれる場合も多い。より便利に扱うことができて破損しにくい写真フィルムの登場によって一般用としては20世紀初めには市場からほぼ姿を消したが、天文学などの専門的な分野では1990年代まで用いられていた。写真乾板の量子効率は約2%である。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

ガラスは非常に安定していて、特に広角撮影のための大判でも曲がったり歪んだりすることがないため、研究用品質での撮影ではフィルムに比べて圧倒的に優れていた。1950年代の最初のパロマー天文台スカイサーベイ (POSS) やこれに続く1990年代の POSS-II サーベイ、南天を撮影した UK シュミットサーベイなど、多くの有名な天文サーベイの画像は写真乾板を用いて撮影された。ハーバード大学やゾンネベルク天文台など、多くの天文台では主として変光星の歴史的研究のために大規模な写真乾板のアーカイブを保持している。

写真乾板の利用は1980年代初めから顕著に減少し、電荷結合素子 (CCD) に取って代わられている。CCD カメラはガラス乾板に比べて、量子効率が高い、光に対する応答の線形性が良い、撮影や画像処理が容易であるといったいくつかの利点を持っている。しかし CCD は現在存在する最大のフォーマット(8192 x 8192 ピクセルなど)でも多くの写真乾板の解像度に劣っている。このため、現在天文学で使われているサーベイ観測用カメラでは CCD チップを並べた大規模なアレイを使用せざるを得ない。また、デジタルデータや(FITS などの)データ形式の「寿命」についても不確定な点があるため、写真乾板の必要性も全くなくなったわけではない。

天文学
昔の肉眼観測による方法に代わって、多くの太陽系天体が写真乾板を用いて発見された。写真乾板を用いた小惑星の発見はマックス・ウォルフによる1891年の (323) ブルーチアの発見から始まった。写真乾板を用いた衛星の発見は1898年のフェーベが最初である。冥王星は写真乾板をブリンクコンパレータで調べることによって発見された。また冥王星の衛星カロンは写真乾板に写った冥王星の像の膨らみを注意深く調べることで見つかった。

物理学
写真乾板は初期の高エネルギー物理学の分野でも重要な道具だった。写真乾板は放射線による電離作用によって黒く感光するからである。例として、1910年代にビクター・フランツ・ヘスは積み重ねた写真乾板の上に残った飛跡から宇宙線を発見した。彼はこの観察を行なうために写真乾板を高山に持って行ったり、気球を使ってより高い大気中に乾板を置いた。

医学画像
ある種の写真乾板が電離放射線(通常はX線)に感度があるという性質は医学画像や材料科学の分野でも有用である。しかし現在ではその多くは再利用可能でコンピュータで読み取ることができるイメージプレートや別のX線検出装置に置き換わっている。

規格
アトム判
4.5×6cm。名前はアトム (カメラ)に由来する。
小名刺判(手札半裁)
5.25×8cm。
大名刺判
6.5×9cm。
手札判
8×10.5cm。
大手札判
9×12cm。
ステレオ写真用
4×10.5cm。手札判を横に切ったもので曽根春翠堂製造のトキオスコープに使われた特殊サイズ。
4.5×10.7cm。広く使われた。
6×13cm。広く使われた。

2009年01月28日

若江城の戦い

若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)に河内国若江城で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦である。
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元亀4年(1573年)4月に武田信玄が死去すると、信長包囲網は織田軍の反攻を受けて一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれ、信長包囲網の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放された。

しかし足利義昭は追放されたにも関わらず、諸国の大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、三好義継も義兄に当たる義昭に次第に同調する動きを見せた。このため、信長は天正元年(1573年)11月4日に上洛し、三好義継の討伐を決めたのである。

若江城の戦い
三好氏ではこの頃、内紛が起こっていた。義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆らは信長の実力を恐れて信長に誼を通じ、義継にも信長への従属を進めていた。このため義継はこの3人を遠ざけ、寵臣の金山駿河守を家老にして反信長の姿勢を固めていた。

そして信長が派遣した佐久間信盛率いる大軍が若江城に攻めてくる。義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の足利義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡したために士気が奮わず、さらに主家もろとも滅ぼされることを恐れた若江三人衆が金山駿河守を殺害し、佐久間の軍勢と内通して城門に引き入れてしまった。このため、義継の敗戦は決定的となる。

義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も奮戦して三好家当主としての意地を見せたが、11月16日に至って遂に力尽き、近臣の那須久右衛門に介錯させて自害した。

「三好左京大夫(三好義継)殿非儀を相構へらるるに依つて、家老の衆多羅尾右近(常陸介)・池田丹後守(教正)・野間佐吉(長前)、両三人別心企て、金山駿河万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ……(中略)……天主の下迄攻逃候処、叶ひ難く思食し、御女房衆・御息達皆さし殺し切て出、余多の者に手を負せ、其後左京大夫殿腹十文字に切、比類なき御働き、哀れなる有様なり」(信長公記)

影響
三好義継の死により、京都で栄華を思いのままにした三好本家も滅亡した。その後、河内高屋城にあった三好康長も信長に降伏して河内は織田氏の支配下に入り、若江城以外の河内の城は破却され、この国は織田家の石山本願寺攻めの拠点のひとつとして重要視されることとなる。

一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)と主に呼ぶ人も多い。

足利義昭によって敷かれていたいわゆる信長包囲網は、元亀4年4月12日(1573年5月13日)の武田信玄の死去により崩壊する。信玄の死去により後顧の憂いをなくした信長は、直ちに京都に攻め上って足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。続けて同年8月、遂に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入った。標的は浅井長政、そして何度も信長自身を窮地に追い込んだ宿敵・朝倉義景との決戦である。

これに対して浅井長政は5000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、また朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら5千の大軍を率いて浅井長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。ところが、浅井方の武将である阿閉貞征らが織田に寝返る。また朝倉側も重臣らが数年来の軍事疲弊を理由に出兵を拒否、やむなく義景自身が出兵するしかなくなるなど、この頃から織田方の内部工作および朝倉家中の闘争による、朝倉氏崩壊の序曲が見て取れる。

朝倉軍は小谷城を後詰めすべく、小谷城の背後、田上山に戦陣を構築する。同時に大嶽砦(城)などからなる小谷城守備の城砦群を築く。

一方、信長軍本隊は、田上山と小谷城の間に割って陣取り、朝倉方を盛んに挑発牽制した。信長方各部隊も各要衝に城砦、戦陣を構築し、小谷城および朝倉軍包囲を画策する。

8月12日、近江一帯を暴風雨が襲った。

信長はこの暴風雨により敵が油断しているはず、と判断し、これを好機と捉えたと考えられる。信長は本陣より自ら1000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦(城)を奇襲した。この砦は小谷城を含む連山の、小谷城よりも高所に位置し、朝倉軍の対織田軍に対する前線基地だった。朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかった。大嶽砦の守将は討ち取られ、砦は落城。同時に朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)も、織田方の手に落ちた。

刀根坂の戦い
8月13日に大嶽砦の陥落を知った朝倉義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、一向一揆などに参加していた農民兵などをも含む旧態依然とした軍容、戦意も低い。対する精強かつ近代化された織田軍と正面から戦うには軍容、形勢ともに不利。そこで義景は撤退を決断した。

信長はこれを好機と捉えたと考えられる。朝倉軍が撤退を開始するや、自らの本隊を率い、自ら先頭指揮を行い朝倉軍を徹底的に追撃した。あまりに果敢な決断と電撃戦であったがために、事前通達を受けていたにも関わらず、織田方の有力な武将らは信長本隊の軍勢の動きに呼応できず、後に叱責を受けている。

もともと、近江出兵に際し家中意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けて"撫で斬り(皆殺し)"にされた。朝倉義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも織田信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3000人以上(ただし「武将38人、兵3800人」などと、創作的つまり誇大な数字であることを感じさせる記録ではある。)と言われる死者を出した。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、結果、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう名のある武将が多数散っていった。

織田軍は翌8月14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢、将はほぼ壊滅した。朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

一乗谷城の戦い
8月15日から16日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。そして17日には大軍を整え、越前に攻め入った。

一方、朝倉義景は8月15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものも無く、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。ここにおいて、朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言する。大野郡は盆地であり守るに堅く、また当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺という、勇猛で知られる僧兵集団が有り、それを頼りに再起を期そう、と促した。しかしこのとき既に平泉寺の僧兵も、所領安堵などを条件としてすでに信長と内通していた(羽柴秀吉による事前工作、と伝えられる)。

8月18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧、これを焼き払った。往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は、灰燼に帰した。一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは若狭武田家旧家臣らであったと伝えられる。このとき、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。

それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた朝倉義景は8月20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六松賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。

近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃した。景鏡は義景の首を持参し、信長に参した。義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾など、義景の極近親者は助命を条件に降伏し捕らえられた。義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていた。しかし織田の軍勢は、彼ら義景の係累を護送中に処刑した。

一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、特に重く用いられるものはなかった。またその他の親族衆・武将らがその後、小規模な反乱を企てたり、一向一揆と共に決挙したりしたが、数年後、越前一向一揆殲滅のため越前に再侵攻した信長の前には無力であった。

この後、織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした(小谷城の戦い)。

戦いの意義
この戦いは、戦国大名・朝倉氏壊滅戦と言っても過言ではない。大名朝倉氏の壊滅により、最終的に信長の領土は越前・若狭に拡大することとなった。そして同時に、情報戦や事前工作があったにせよ、わずか8日間の実質戦闘で名高き古豪・朝倉氏を壊滅に追い込んだ、信長という存在の台頭を、改めて日本全国に知らしめることとなった戦いとも言える。


2009年01月20日

NDC(日本十進分類法)では9類にあたる

文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品の事をいう。それらを研究する学問も文学と称されるが、これについては文芸学で扱う。NDC(日本十進分類法)では9類にあたる。

狭義には、小説や詩、文芸評論などを典型的な文学の例とする。

原初的な文学は口伝(口承文芸)である。それが文字で書きとめられるようになり写本の形で流布するようになったが、15世紀以降印刷技術が普及し、やがて活版印刷による文学作品の出版が盛んになった。現在ではインターネットに代表される電子メディア上で表現されるものもある。

文学形式
メディアの変遷に応じ、最初は音声で受容される叙事詩、抒情詩などの詩や、演劇が中心的な役割を果たしたが、近代に至り文字の形での受容が容易になるにつれて詩から小説への大規模な移行が起こった。

翻訳
言語に依存する芸術であるため、他言語の作品を鑑賞・解釈するためには翻訳が大変重要であり、翻訳家の存在が大きな意味を持つ。翻訳された作品を翻訳文学と呼ぶ。

評論
文学作品を研究・分析・批評することを文芸評論(文芸批評)という。広義には研究論文から雑誌のコラムまで全て評論と言える。文学だけではなく、あらゆる作品が評論の対象になる。評論には様々な手法があり、それは研究対象や時代、評論家自身などに依存する。優れた評論文は、それ自体が文学作品として評価される。作家や思想家が文芸評論家として活動する事もしばしばある。

文学の分野

口承文芸
散文
フィクション / ノンフィクション
小説
紀実小説
戯曲
随筆(エッセイ)
書評
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